2019年3月19日火曜日
醜態から、美しい私へ。
春雨のしずく
心と体が繋がっていないとしたら
どうだろう?
ここ最近、ご縁から離れた演奏家の方がいるが
その方が有名であれ、どんな生い立ちであれ
どんなに素晴らしい世界を持っていても
立ち去らねばいけない「見極め」がある。
それは「人間性」である。
観衆には見せない、現実の本性を身近で感じ
ある心の旋律を理解してしまった時
どんなに素晴らしいと称される演奏家からも
私はすんなりと、その人から去る。
長年、音楽の世界にいると
性格は酷くても、演奏は別だから。とよく聞くし、言われる。
ふむふむ、しかし、自分がやって気持ち良い演奏家としか
私は一緒にやりたくない。
それは健常者であっても、そうでなくともだ。
昨年9月末から
ASAMIさんのハイヒールレッスンとコンサルティングを学び
「軸」と言うものを
言葉や意味、だけではなく強く再確認させられております。
自分の「軸」で生きることは「当たり前」のような気がします。
しかし、子供になり、外の世界に出、社会に出
特に日本の教育というのは「自分軸」を育てるものではないので
消滅していくことも
そう、「あぶく」のように軸は消滅させられる時々が
あるのかと私は子供の頃に体験しそうになりました。
それは、皆と仲良く、集団、協調性。
その中での「いじめ」など。
ちょっと目立ったり、自分の意見を言うと白い目で見られたり
笑ってしまうことばかりなので
出る杭は打たれていいし
私などはあまり人に興味を持たないので
ヤキモチや嫉妬すら無縁の人生です。
何故、「ハイヒールの哲学はブレない生き方へ導かれるのか?」
冒頭でも述べたように、いくら「自分軸」がある表現者がいたとしても
その「軸」自体がひん曲がっていても本人は気付かずに
その「軸」を正当化して突き進むのだろうと思います。
哀れなことよ。
自分の「軸」がまっすぐだ、と強く信じ真っすぐだとしても
誰かから見ると非常に曲がっていたりする。
それはそれで良い人生なのかもしれませんが
昨年秋からASAMIさんは毎回、根気強く、忍耐強く
私が本来、真っ直ぐだ、と信じていた
いつも曲がった姿勢を指摘し続けて下さった。
長年の癖は、誰もこの歳になると正してはくれない。
体の中心、所謂、インナーマッスルを「意識」する。
「母指球」に体重を乗せて歩くことを「意識」する。
「腹筋、背筋」を「意識」する。
「肩甲骨」を「意識」する。
そうすると段々、体から湧き上がる血潮が「本来」の
「私」を「意識する」ようになる。
そして「纏う(まとう)」と表現される
美しいものに負けない心身を持つことがやっと土台として紡がれる。
どんなにオートクチュールのドレスを纏っても
ルブタンの美しいハイヒールに足を忍ばせても
何千万円のものを身に纏っても
「その人」の軸が、なければ
ドレスにも、ハイヒールにも、装飾品にも負けてしまい
その人ではなく、高価なものだけが輝く。
良く街角で見かけるのが
ルブタンの美しいレッドソールのハイヒールを履いていても
猫背で、膝を曲げ、大きな靴音を鳴らし、歩いている。
履き方を知らないで、履かれた靴は
見事に早く壊れると共に、周りの方々をも良い気持ちにさせない。
裸の王様だ。
その人が良ければ、それで良いのじゃない。
うふふ、そうは全く思わないけれど。
私は元来、自分軸が強すぎて人に苦手がられることも多かったが
体に対しての自分軸はASAMIさんとピアノのお師匠さんに言われて
初めて気がつき、直さねばと感じた。
長年の癖は、「心の癖」「体の癖」全部、繋がっている。
ハイヒールの哲学は、恩恵を後からシャワーのように頂くように感ずる。
外反母趾対策、O脚予防、骨盤調整、腰痛改善、腹筋背筋の強化
肩甲骨とデコルテを開き、首の筋肉強化、まなざしの方向...etc
まなざしの方向が変わると
体の中に「自分」と言う「中心」が集まると
人はどうなるのか?
そうです。
そうなります。
自分が澄んでくる。
ハイヒールの履き方を学び
「自分」を学ぶ。
ずれていた(ぶれていた)「自分」を学ぶ。
その他に勝るものはあるだろうか?
自分の醜い生き様を学ぶのだ。
こんなに史上最高のものはないのです。
得意なものを学ぶことよりも
非常に厳しい。
自分の世界観も、(音楽に対する)実力も、技巧も、人生観も
何もかも確立しているにも関わらず
その上で自分の醜い醜態を知る。
それこそ、美しい人生へのスタート地点だと
ハイヒールの哲学は私に教えてくれた。
Amitié
Le son de la Mer
海音