2019年4月23日火曜日

この世を忘れて、花になる






プロとは何だろう、そう描く時に浮かんで来たのは

楽しむ事よりも、夢中でやっている「何か」。

夢中でやっていると「楽しい」とか「辛い」とか思わぬものだ。


私は2歳半から書道家の祖母に書道を学び、4歳頃から音楽を始めた。
時間の流れは、こうだ。
遊ぶことは無いのだ。
何故なら、ずっと書きっぱなし、弾きっぱなしなのだから。

そう過ごすことが実は遊びだったのかもしれない。



しかし、やがてコンクールや大会が入ってくると
そうも行かない時がある。

純粋に何かをやっていても大人の事情で
捻じ曲げられる結果を目の前にする。

僻み(ひがみ)が妬みは、どこの世界にも、どこの国にもある。
何せ、私たちは人間なのだから。


以前、ブログでの綴ったが私には欠けている感情がある。
それは「嫉妬や、焼きもち」と言うもの。

あまり人に興味がないので湧かない感情だ。
唯一、私が子供の頃に嫉妬をしたのはすぐ下の弟のみだ。

非常に体が弱く、非常に頭が良かったからだ。

私は常に元気で、非常に努力家だったからだ。



話は戻るが、身内が亡くなっても
日本には一切、戻らなかった。
優先すべきことは音楽である事と分かっていたし
亡くなって行った身内の親愛なる人々は
私が反対にお葬式に出ないことを「私らしい」と喜んでいたに違いない。

そう、私は知っているし、他の選択は無い。
プロとして生きる道筋として。





       




書道も、ピアノも幼少期からのものであるが
ハイヒールは昨年の秋からである。

「指導する側」には責任がある。

ピアノ講師はパリで7年程やっていたが
プレイヤー気質の私にとっては「教えること」に興味があまり無く
初めのうちは精神的に厳しく感じた。

そうは言うものの、7年間もフランス語で指導出来たのは
どうしてだったのかと考える。



先日、ハイヒールのモニターレッスンを有難く行った。
必死すぎて、あっという間に2時間は過ぎてしまい
終焉後に

「ああ、あそこは断然にこういう風に注意を促すべきだった」

「教えることに必死過ぎて肝心な所に焦点が行っていない。」

「(私の)言葉と脳が繋がっていない」

.....などと
目を瞑ると沢山の反省が、泉の様に湧き上がって来た。

情熱はあっても良いが、もっと的を得た「情熱」をすべきだ。





何事に於いても「やればやるほど、奥が深い。」
学びに終わりがないように

「もっと自分は出来るのではないか?」
「もっと自分は惜しみなく出来たのではないか?」と思ってくる。




プロはわかる。プロに近づけば、分かってくる。

自分が
どのくらいの力を持っているか。出来るのかを。


まだまだ私はハイヒールを教えるに当たり
旅の途中で、階段を美しく上がりながらも
満ち満ちていないレヴェルである。



クライアントが「心から、変わりたい」
そうであれば、生半可な教え方ではどうにもならない。

クライアントが「心から、変わりたい」のであれば
己も「心から、変わる」ことをせねば。



(音楽レッスンの例え)
子供ならまだしも、親に習い事を嫌々させられて
2,3ヶ月も同じ曲をダラダラと練習もせずに持ってくる。
これは仕方ない。よくあるパターンだ。

そうなるとこちらも、もう情熱的には注意をしなくなる。
何ごともそうだが、何も言われなくなったら、もうお終いだ。



しかし、ハイヒールレッスンを受講されたい方は
殆どが「自分の意思」で学び始め、安くはないお月謝を払う。




このブログの初めに綴った
「プレイヤー気質の私が何故
ピアノ講師としてフランス語で教えられたか」



それは、音楽の喜びや楽しみを教える小さな伝道者として
美しさや、豊満な色彩の世界を分かち合える音楽の旅人として
きっと誰かに音楽を伝えたくなったのだろう。



だとしたら、ハイヒールコーチとしてならば

女性の特権として、優美さ、美しさ、楽しさ、誇り、しなやかさ
まどろみの中には無い「現実の女性」としての「姿」にある生命の
美しさをより確立させるものとして、私は「これからの女性」と共に
美しい足跡を作って行きたのかもしれない。





足跡とは、いづれ消えて無くなるものだ。

だからこそ、諸行無常の中で「どれだけ美しく」自分の人生を歩めたか。



それを、女性はハイヒールで描くことが出来る唯一の生き物である。


そのプロを目指すとはモンブランの山よりも厳しい気もするが
ある意味、生きている「価値」を試される事とと言えよう。




プロとは夢中で地獄を歩き
いづれ立ち止まった時に天国を見る伝道者であろうか。



Amitié



Le son de la Mer
海音