2018年12月16日日曜日

少女の顔で、老婆の声 其の一








昔、あるお世話になっていた女性のピアノの先生が仰っていた。



「あの子ね、凄く上手で完璧なのよね。誰も太刀打ちできないくらい。

 でもね、演奏がつまらないのよ。恋したことがないのよ。
 
 または男性と付き合ったことがないものだから。

 ピアノ、いいけど、弾く前に恋をしたらいいのだけどね。

 そしたら最強だと思うんだけどなぁ。エクスタシーがないのよ!

 アルゲリッチくらいの顔、あなた知っているでしょ!

 あれくらいの顔、しなきゃ!」←徐々にヒートアップして行く。









機械的な情熱のピアノ演奏はパリでも幾らでも聴いて来た。
尚の事、日本でも。



先を言うと、要は何でも経験なのだと思う。







まぁ、色々な表現法があるので何とも言えないけれど。


私は情熱的に頭や体を振り乱して弾くタイプの人間(演奏家)ではない。
そう言う余計なエネルギーパフォーマンスを避ける傾向がある。

意味がないから。


それに私はエンターテイナーではないから。







小さな頃から師事していた先生方も
そう言うタイプだったのかもしれない。



淡々と、冷え冷えとした姿勢で弾きながらも
音には色彩があり、温かみがある。



非常に落差があるものが好きで、至極、魅力的だ。






ASAMIさんとのハイヒールレッスンも同じことが言えるだろう。

「余計」な動き、意識を入れない。

「焦点」だけに強く強く、意識をする。

非常に芸術的で理に適っている。



いつも
あゝ、理に適い過ぎていると感動します。










ハイヒールの歩き方も
ピアノの弾き方も

色気や性が非常に重要だと思います。


その波の満ち引きがある様に。







リストの超絶技巧練習は以前、私も得意としていましたが
幾らでも「機械的に」「速く」「超人的」に弾くことは
ある程度のピアニストなら出来ると思います。

リスクは腱鞘炎に成りかねない時もありますが。


しかし「人間的に」「冷酷さ」「温もり」「呼吸」「間(ま)」を

または「神の領域」を



どれだけを持って表現できるかが、人間表現力のおもしろみであり
リスナーにも高揚感や幸福感、清閑的、歴史的悲壮感なものを
身体中で感ずることが出来ると思うのです。


当たり前ですが「機械的」「速さ」は初めは面白がられても
果ては、飽きられます。




感覚の問題ですが
パリである有名なヴァイオリニストの演奏を楽しみに聴きに行った時
(私の偏愛するショスタコーヴィッチのプログラム)


解釈とセンスがあまりにも自分の感受性に合わず
その場に居られなくなり
奮発して良いお値段のお席にも関わらず
一部まで我慢し、休憩中に音楽劇場を出てた。


そして、すたこら家に帰ってしまった思い出がある。


(まだOISTRAKH....オイストラフ(私の愛するヴァイオリニスト)
のCDを家で聴いて居た方が幸せだと思い)




愛してやまないショスタコーヴィッチ ヴィオロン コンチェルト op.99 No.1
(笑いもせず、高揚する顔もせず、ぶっきらぼうな相変わらずなお顔)

しかし
ファイナルをこれまでに圧巻、高揚、勝利で奏でるヴァイオリニストが
どこに、いるであろうか?これぞ全くブレない官能だ(私にとって)




多くの演奏家は体を揺らして演奏する方が多いが
オイストラフは動かない、変わらないポーカーフェイス
音楽は高揚しても、自身の体も顔も高揚しない。

しかし音だけは凄まじい人間性の嵐だ。

何年聴いても、それは変わらない。


Shostakovitch violin concerto op.99 No.1 final
☆音が出ますのでお気を付けてください。


(その他、ショスタコに関する音楽を載せようと思ったが
あまりにマニアック過ぎるので割愛させて頂きます)








好み、そこに含まれる「きっかけ、原因」となんぞや?





思うに


「呼吸」と「官能」ではないでしょうか?





前に述べたように
昔、師事して居た女性のピアノの先生が限りなく仰って居たことに
共通すると思います。



人は、そこを求めますね。




しかし「あけらさま」に分かってしまうような呼吸や
官能は滑稽なピエロです。

本人から自然に醸し出される人生、の音とでも言いましょうか。






「呼吸」と「官能」は重なるものがあります。



そして同じくらい「非常に興味のないもの」でもあります。
私にとっては。





ある意味、幾らでも演技が出来てしまうものでもありますから。


非常に忍耐強く、全くつまらないの時間にもなります。






以前パリで、日本で、歌を歌った時に同じ言葉を頂きました。

まだ20代〜30代のシャンソン下積み時代でしたが

「少女の顔で老婆の声の歌手」と。




私は
それで良い、と当時から本望だと思って居ました。

老婆くらい、生きて居たと思うときがあるからです。

多くは語りませんが

当たり前だ!と叫びたくなりました。





生きること全てが音楽でいる自分にとって
「感じる」何かは常に「餌と肥やし」として生きて来ました。





男性にドキッとすることですか?

その人、それぞれで「これ」と言うものはありませんが

色々冷めている部分も多く

美しい雌猫と一緒に過ごす方が幸せだと思うのは
ワガママでしょうか?







私は変態なのです。







官能ない音楽は、ただの「工事現場の機械音」なのです。



官能とは「呼吸」と「血の流れ」とも言いましょうか。

ただ、そこに何かの「軸」がなければ
かつて生まれなかったものだと
産み出せないものだと思うのです。



その人が孕んで来た
人の道




所謂、「脈」でしょうか。






Amitié




Le son de la Mer
海音